昭和48年05月18日 月次祭



 立教神伝 「この幣切り境に肥灰(農業)差し止めるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業をやめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。
 その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く。
 立教神伝であります。今朝からのご理解でも御座いました。今朝からのご理解は最後の所を「此の方の様に実意丁寧神信心いたしよる氏子が」と言う所からのご理解でした。前半は天地金乃神様が、教祖生神金光大神に切々として、お頼みになっておられる所で御座います。それから後半は天地の親神様の願いである。願いがこの様に人間氏子と天地金乃神との間の交流が計られて、取次ぎによってそれがそういう働きをなす。
 そこの所が「神も助かり、氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛いたし、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」という、ここの所が神さまの願い、神願であります。氏子とともに一緒に助かっていきたいと、それが神さまの切なる願い。それには実意丁寧のもうこの上もないほどしの、信心をなさる教祖の神さまへ、「その方のような実意丁寧な氏子が、どうか世間になんぼうも難儀しておる氏子を、取次ぎ助けてやってくれないか」と。
 「もう死んだと思うて欲を離して天地金乃神を助けてくれ」とまで仰っておられる。そこで私は「世間になんぼうも難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれ」と言う所の前段階としてです。まあ合楽の信心があった。おかげを受けておる。今日のお月次祭を拝ませて頂きよって、それを本当に思います。まあようもこんなおかげを頂ける様になった事であるもんだと言う事。所謂お取次ぎによっておかげが頂ける様になったと言う事。そこで是からの合楽の信心というのがです。
 神も助かり氏子も立ち行くと言う所にならなければいかん。神も助かって下さらなければならない。「氏子あっての神、神あっての氏子。氏子繁盛致し、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く。」氏子繁盛致しと言う事です。まず繁盛の大みかげをいただいて、その繁盛の大みかげをもって、天地金乃神さまが助かって下さる事の為に、私共が信心させて貰わなければならん。そこに神も助かり氏子も立ち行く、所謂あいよかけよの道というのが、そこから開けてくるのです。
 例えば合楽の場合、今日のお祭りを頂いて思うのですけれども、まだそこの氏子繁盛いたし、と言う所までしか、頂いていないような感じなんです。言うならばおかげに腰掛けておる、今日のご大祭じゃないけれども、あんな鯛見た事がないと言う様な大きな鯛でした。それにいつものお月次祭のあの鯛でも大体大きいですよねえ。けれどもあの鯛がこんなに小さくなるようです。あれが背中に負わせてある。
 今日はあの大盛り台で。久富先生と・・・・(?)嘉朗さん達が、今日御用頂いておりましたから、あんなふうに・・・、それこそふつうで持とうと思っても、持てない位に重たいです。もう一生懸命ですねあれは。神習なさる先生方は、あれをこうやって、あれがと思って頂くから、いかにも軽うごたる、けれどもとてもとても大変なんです。鰤もやっぱりそうなんです。ああいう大きな鰤のうえに、日頃月次祭に頂く所の、鰤のお供えがああしてあるし、じっさい鯖のごとみえる。
 けれどもあれでもやっぱ、あれだけ・・・(?)大きい鰤であり、随分大きい鯛であるけれども、そうしたもののある所の、鯛と言い、鰤と言い、それはどうでも見た事がないような。大祭でもあんなお供えした事がないような大きな鯛。あれが丁度合楽で頂いておるおかげの様子ではなかろうか。言うならばおかげにおんぶしておるという実感です私は。おかげにおんぶしておるんだ私は。
 おかげにおんぶしておったら、「氏子繁盛いたし」と言う所までは頂いても、「神も助かり氏子も立ち行く」と言う事。「親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」ということにならないのだという、金光さまの信心の建前である所の信心に、まだまだが是からがそれだと言う事になるのです。だからまずは私どもがです。「氏子繁盛いたし」と仰る。また「なんぼうも難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれ」と仰る、取次ぎ助けらると言う事を、まず頂かなければならない。
 そして助けられたならば、助けられたで済んだならば、それはおかげにおんぶしておるのですから、いつどこですきが出来るやらわからんから、そういうおかげでは他愛もないおかげと言う事になりましょう。子供にも子孫にも残る、あの世にも持っていかれると言う様なおかげにはならないと言う事。おかげにおんぶしておるのですから。今日のお供えは、皆さんどういうふうに感じられたでしょうか。「ほう。」ち、ほうばっかり言ったって違うです。本当に「ほう。」ち言おうごたる。
 けれどもその上にしょうもなく乗っとるのが、あれが合楽の信心なんです。大体は、ね。この様な信心しかでけんのに、こういうおかげを頂いてというのが合楽の現状である。だから、この合楽のこの現状を現状のままであってはですね、愈々あいすまん事になってくる。それこそ蟻の一穴から、堤の堤防が切れると言う例えがある位です。小さい蟻がほがした穴から、お恵みの水がどんどんとそこに流れ込んでいきよるうちに、ちゃぁんと堤防の土手まで、堤防まで決壊する。
 切れてしまうと言った様な事にもなりかねないのだ。それが私共がここの所に気付かせて頂かないとです。大変な事になる。つい先日は私はこの眼鏡をお供え頂いたんですけれどもね、これは二十万円します。お届けしとって二十万円ではないかもしれません。その人が私と高橋さんと、繁雄さんと、けれどもあまりにも高いからびっくりして、帰ってきたら、そのあとにこのお供えがきた。それがデパートで見てきた二十万と言う、それと寸分じゃあなくてから、これのほうが格好がいい。
 つくりがいい。というわけなんです。どげん考えったちゃもう目ん玉が重うなるごたるかんじがする。しかもこれは中の玉だけは変えて頂かなきゃならんだろうと、私も変えんならんと思う、その玉までが丁度・・・。私は三つ眼鏡を持っている。もう三つがもうそれぞれ少しよが・・・なっておる。そして、どれよりも是よりも是が最高に、私に今ぴったりすると言う事なんです。
 久富さの言葉じゃないけれども、ほんとうに恐ろしかち。神さまが見通し、聞き通しと仰るが、まあ本当に恐ろしいごとあると言うほどしのおかげを合楽では頂いておる。只それはおかげである。ならそういうおかげがどう言う所から頂けれる様になるだろうか。先ずはそういうおかげを受けなければならなんでしょう。そしてですねその後にです。そのおかげをもって、お役に立たせて貰おうと言う事にならなけりゃいけんのです。そこん所が、今日のご理解なんです。
 じゃあおかげを頂いても、そのおかげに腰掛けてはならないぞと。是はしかしいつの場合でも言えれる。私だけではなく皆んなもそれが言えれる。現在まあどうやらこうやらおかげを頂いておる。もうそのおかげに腰掛けたら駄目だというのです。そのおかげをもって、それぞれ神さまに喜んで頂く様な御用を。所謂お役に立ちたい立ちたいという一念を燃やさなければだめだと言う事。それが金光様のご信心であり、天地の親神様の立教神伝をもって、教祖の神様に切々と願われる。
 そして自分の心の中を吐露するようにです。氏子あっての神だと、もう自分のほうが地を低くしておられると言う感じなんです。おまえ達あっての神だと仰る。氏子あっての神、神あっての氏子。そこから親と子とが一緒に助かりおうていけれる、そこから神も助かり道も開けれる道をです。教祖金光大神に願われたというのが、この立教神伝だと思うのです。今日は午後から、秋永先生の所のお父さん、お爺ちゃんの百日になりますからね、百日祭を奉仕させて頂きました。
 兄弟打ち揃うて、真の信心に勢を出させて頂いておる人達ばっかりです。家族ぐるめで、ぐるめでの信心である。がまあ今日のお祭りを拝んだわけで御座いますけれども、神様に私お礼を申させて頂いておりましたら、丁度それこそあんな大きな相撲取り見た事がないと言う様な立派な関取がですね、関取が受けなきゃならないのに、関取が行司にね、こうやって勝ち名乗りをあげておる所を頂いた。
 普通は行司が関取に勝ち名乗りを。それが反対である。どう言う事であろうかと私は思うた。そして気付かせて頂いた事なんですけれども、是は負けるが勝ちと言う事だと思うたです。ね、行司が勝つはずはありません。私はこの真理は昔から言われる「負けるが勝ち」と言う様な事が言われますけれども、言わば教祖の神さまも「打ち向かう者には負けて、時節の任せよ」と仰る。私はお道の信心はどこまでもですね、負けて勝っていくおかげを受けなければならないと思うのです。
 それで私はあそこのいとこの方達に話したんですけれども、本当にこうやって百カ日のお祭りを奉仕させて頂いた。まあ是からまた一年祭、三年祭と言う様に次々と年を重ねて、お祭りもまた盛大になって来る様なおかげを頂く事の為に、どうでもお爺ちゃんが頂いておられた生き方を、先ずは身に付けなければいけないと言うておられた事でした。所謂生き方です。信心じゃない。それは言わば48年間、所謂負けるが勝ちでみえられたんです。もう決して腹は立てんぞと。
 決していやにくか事は言わん、それも家内にでも、子供にでもと言う信条をです、48年間ですかね。とにかく50年という長い間をです。それに、徹して来られたと言う事。亡くなられた知らせを受けた途端に頂いたのが、「和楽の徳」と言う事を頂いた。心が和らいでおかなければなりません。もうそれこそいつ見てもにこやかにしておられた。どんな中にあってもでもにこやかであった。そういう生き方をです。
 50年間続けられた。現在はそういう生き方をもって、今度は信楽の信心に御霊ながらご修行があっておるのです。信楽というのは信心。所謂信じる事。信心する者は何事にも信心になれよという、そういう信心になる事に、御霊ながら一生懸命のご修行があっておる。御霊ながらに御霊の位も進み、愈々御霊としての力も働きも、お出来になられる事になるのです。そこで先ずはです。
 合楽のお爺ちゃんがじゃない、秋永のお爺ちゃんが頂かれた「和楽の徳」とまではいかんでもです。ここの所にひとつ本気で焦点をおいての信心にならせて頂く。それをならここでは「なりゆきを大事にする」「御事柄として受けていく」と言う様な頂き方をです。本気でなされなければいけない。昨日、昨夜が合楽会で御座いました。合楽会でいろいろとお話がでました中で、そこの野口さんが発表しておられました。その前の日が日田の、日田支部のお祭りでした。
 そこで皆んなおかげを頂きましたが、石井清さんの車に便乗させてもろうたんです。行きも戻りも清さんのお話を聞かせてもろうて、おかげを頂きました所。それがね。こういうことをきよしさんが言われました。私は今日までですね。合楽の信心を頂くようになってからです。今日まで。もう言うなら一切を御事柄として受けてきたと。ですけれども今晩明日失敗するかも解らない。いつ私が腹を立てるかも解らない。もう是は辛抱できないと言う事になるかも。是は解らない。
 そのために油断もすきも出来ません。と言う事。所謂おかげに只便乗して楽々であるときにです。やられる事によって、あいた失敗したと言う様な事になってくるんです。心で解っておりながら、もう自分の言わば言葉とか態度と言うものは、それこそ烈火のように怒ったり、信心でもない者の話を重視したりする様な事になる。それで大体まあ思いますとね、天地の親神様と言う事は、おかげを限りなく下さっても下さっても、恩きせなさる事もない代りに、またどう言う事が起こらんとも限らない。
 もう生きる死ぬる事から、怪我をしたり、災難難儀と言った様な事もあるけれどもと言うて、天地の親神様は氏子に決して、お断りもなさらない。お詫びもなさらない。その代りに又おかげをやったからというて、恩着せもなさらない。そう言う例えば恩を着せなさらずに、おかげを下さる様になると言う事の、おかげがです。例えば野口さん。大体神様が磨かそうとしてこうやって磨き粉を振掛けて下さる様にな感じなんです。
 例えば腹が立つとか、難儀な問題という時には、さあ氏子磨けよと言うて、磨き粉を振りかけて下さる様なもんだけれども、それをああ今日はいいと言うて払いのける。それによって磨かせて頂くと言う、生き方をさせて貰う所から、今日私はこういうおかげを頂いておるという意味の事を話された。確かにそうです。神様は私共に磨き粉をかけておられるようなものなんです。それを私共は折角磨き粉を頂いてと言うて、それを払うてしまう。その磨き粉をもって磨く所にです。
 私は言うなら一人でにものが出来る様なおかげ。「とかく信心は根を肥やせ。根を肥やしておけば一人でにものが出来る様なものである」とこう仰る。そういうおかげが金光大神御取次ぎの教えによって、それが解って行じられた時にそこに一人でにものが出来る様なおかげに成って来る。だからもう一度ここをしっかり頂かなければいけない事が解る。私共はやっぱり今日おかげを頂いておるというのはそれだと思います。
 降掛かってくる難儀な問題、と思うておったけれども、あれは降掛かって来るのは、あれは磨き粉であった。恐いと思う様な事は、あれは度胸を作って下さるための神さまの御働きであった。と言う様な事が段々分かって参りまして、住む所がすっきりして来る様になったら、今日頂いておる様なおかげを受けるようになる。しかもひとりでにおかげが頂ける様になるです。
 「世間になんぼう難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれ」と言う所までは、ある意味成就したごとある。そこでです是からがです。神も立ち行き氏子も立ち行くと言う所の、段階に入っていかなければならんと。言うならば神さまも助かって下さる程しの、生き方在り方にならせて頂く所からです。神さまのご信用がついて来る。ただ私共がおかげを頂いただけと言うのは、・・・・(?)、神さまはもう恩も着せずに、もう土地が肥えてくるから、一人でにものが出来る様なおかげだと。だからそのおかげをもって私共がです。真実の御用に神願成就のことの為に、私共がおかげを頂かせて貰わなければならないと言うのです。
 私は昨夜遅くまで起きておりました。それから寝ながらテレビをつけているんです。そしてご祈念させて頂いてテレビはつけっぱなし。そしたら画面に映っておるのがなんと「御礼200万両」と言う、次回の予告の映画の題名がでておった。私はびっくりした事があるんです。「御礼200万両」というんです。それがね実はね、私昨日「御礼200万両」というおかげをお取次ぎさせて頂いておるんです。昨日。
 はあ神様がねえ、ほんとにその受けて下さっておる印をこの様にしてみせて下さると言うんです。そのお供えをなさる方もです。昨日ここにお供えをもってみえてから、ちょうど十何日の前だったでしょうか。こうこうでおかげを頂いておりますから、少しまとまっておかげを頂きたいとこう言う。で、どういうふうにしてお供えをさせて頂いたら、いつがいいでしょうかと。
 「そげん、あたしがもらうのだけんいつでんよかばの。」と言いました。けれども折角それだけのおかげを頂かせてもらうならば、「慎みと喜びを添え」でなければいけんから、自分の心の中に喜びが湧いたときに、愈々自分の心の中に「あいすまん」という慎みの心が起こったときに、お供えなさったらどうだろうかと言いました。それで十何日伸びとったわけです。もうほんとにみなさんね、眼鏡の事と言い、200万両の事と言い、それこそ、昨日のテレビを見とらん・・・、
 この次にあるあれになんか「御礼200万両」と言う映画が必ずあるです。ね。嘘の様なけれども事実なんです。あたしがなら20万のこの眼鏡がほしいと思った。これはべっ甲です。このべっ甲のこういう模様が好きだと思った。所が値段をみてたら、あまりびっくりしてから。それは勿論高橋さんがお供えなさる事になっとった。けれども幾らなんでも20万円のお供え・・・。是は私には似合わんとかなんとか言うて断った。そのあとにです。間髪をいれずこのお取次ぎが来るんですから。
 誰かが聞いてござったごたる、見てござったごたる。しかも私の目にぴったりと言うのですから。誰々さんを通して私の上にあうものを、ぴしゃっと用意しておって下さったと言う事が解るでしょ。そういうおかげを頂いておる。例えば今の200万両の話でもそうです。私がお取次ぎを。がっちりとお取次ぎをさせて頂いたと言う事を神さまが受けて下さったというしるしをそういう画面の中にでも見せて下さるんです。おかげで今日は、田主丸の信用組合のほうがもうあと290万残っておる。
 残金が残っている。だから今日は若先生が先から、おかげで全部あちら支払いがすんだとこう言う。と言う事はどう言う事かというと、神さまが助かんなさる事でしょうが、皆さん。「さあ、おかげを頂きました。」と言うてちょこっとばっかりに御神酒1本持ってきても、それでお礼がすんだごたる信心では、だから神も助かりと言う事にはならんというのです。だからと言うて・・・(?)、身をけずり、心をけずりと言うて、心はけずるけれども、身をけずってからも財布の中からこうじゃない。
 神さまが財布の中に入れて下さったその中から、おかげを頂くのです。1000万円のおかげを頂いて100万円はなんでもない。100万円のおかげを頂いて10万円のお供えはなんだろか。というわけです私先程ご祈念をさせて頂く前に、涙がこぼれたあやうく。小学校6年生でした旅行に行った。旅行に行っても旅費が納められんでもう、ぼくはもうやめようか、行くまいかとまで言いよった。おくりあわせを頂いてでけた。
 今日帰って来た。なんか小さいこのくらいの包みをもってきた。「はあ、これはなんね。」と言ったら、「親先生にお土産。」と言った。そう言う中だから余分なお金を持って行っているはずがないんです。その中からですねそれこそ、神さまへのお供え親先生に喜んで頂きたいと言うそういうね。私はそれが信心と。もう長くて知っておると言う事じゃない。ね、神も助かり氏子も立ち行くと言う、そういう信心の段階を今こそ、今合楽の全体に求めておられる。私は今日の言わば大祭になる程しの。
 派なこのお祭りを頂かせてもろうてです。是がもしこのままであったら、あの今日のお供えじゃないけれども、大きな鯛に小さい鯛がおんぶしておるような、大きなぶりに小さいぶりが言わばおんぶしておるように。これじゃぶりぶりにゃならん。ぶりぶりというなら、同じくらいの鰤でなからにゃならん。100の信心が出来るから、100のおかげを頂くと言うほどしのものでなからにゃならんのだけれども、只々私共はきよしさんじゃないけれどもです。それこそ振り掛かって来る事それを全部。
 磨き粉として磨かせて頂く事にならせて頂いて、自分の心が豊かになってきよったら、根肥やしする事に一生懸命に精進させて頂いておったら、今日ただ今おかげを頂いておるように、一人でにものが出来る様になった。その一人でにものが出来る様になったのに、おんぶしておったんじゃ出来ん。おかげにおんぶしておったんじゃ出来ん、是に腰掛けておったら出来ん。さあここから立ち上がって、神も助かり氏子も立ち行くあいよかけよでと言うほどしの、信心にこれから私共が、神願をねそこに傾けなければ。
 それが金光様のご信心だと言う事になるのです。そこはひとつおかげを頂いて、折角なのですから、難儀な氏子に取り次ぎ助けてやってくれいと仰る、取次ぎによって助けられるおかげを頂かなきゃあいかん。それには神さまの言う事を聞かなきゃいかん。それにはです。私が申しますようにです。神様がお恵みとして下さるものをです。一切お恵みとして受ける事。自分の都合の良い事だけがお恵みじゃない。
 降る事もお恵みなら照る事もお恵みなのだから、これを徹底。今日は秋永先生たちとまた、下がってから話した事でした。「もう、先生、ちょっとここのところに焦点を置く以外にはなかばい。」と。御霊さまのご理解。いわゆる「負けるが勝ちでいくより他にはなかばい。」と。利口になる事もいらん、勝つこともいらん。負けるが勝ちになるのだから。
 その賢さが本当の、神さまが喜んで下さる勝ちになるのだと、そういう生き方をまずは身につけさせて頂いて。いわゆる神願成就の事の為に、真実の御用が出来る事の為に、願いを賭けさせて貰い、精進させて貰わなければならんと言う事になるのです。今日のご理解は素晴らしいお祭りじゃった。いやというのは、あれは素晴らしいお祭りではなくて、とりわけ私が申しましたように、是これおまえ達はおかげにおんぶしとるぞと、仰って下さる様なおかげのお祭りであったと思うのです。
   どうぞ。